LOGIN石の壁を伝う水滴の音だけが、時間の経過を教えてくれた。
窓のない牢の中で、私はどれくらいの時間が過ぎたのかもわからなくなっていた。ただ、頭の中だけは、驚くほど冷静に働き続けている。 毒。手紙。目撃証言。 どれも、私を犯人だと示している。けれど、どれも決定的に「おかしい」。 そのとき、鉄格子の向こうに足音が近づいてきた。規則正しい、迷いのない歩き方。騎士のものだ。 「ヴィオラ嬢」 低い声に顔を上げると、そこに立っていたのは、王国騎士団副団長──カイル・ヴァレンだった。 殿下の護衛の任に就く彼とは、これまで儀礼的な挨拶を交わす程度の関係でしかなかった。婚約者だった私と、必要以上に距離を置いているようにも見えた。 「……カイル様。このような場所まで、何用でしょうか」 「見張りの交代で、たまたまここを通りかかっただけです」 彼はそう言いながらも、その場を立ち去る様子はなかった。鉄格子越しに、私をじっと観察するような目で見ている。 「一つだけ、伺いたいことがあります」 「何でしょう」 「貴女は、本当に殿下を手にかけようとしたのですか」 まっすぐな問いだった。同情も、決めつけも感じられない、ただ事実を知りたいという響き。 私は、少し考えてから答えた。 「いいえ。誓って、私はそのようなことをしておりません」 「証拠は、貴女を示していますが」 「証拠は、私にも不利に働いています。ですが──一つ一つを見ていくと、辻褄が合わない箇所がございます」 カイル様の眉が、わずかに動いた。 「たとえば?」 私は、詮議の間で感じた違和感を、順に語った。 「毒の瓶には見覚えがありますが、殿下に渡したことは一度もありません。手紙の文字は私に似ていますが、私はあのような文章の書き方をしません。目撃証言についても、その時間、私は自室におりました」 「証明する手立ては?」 「……ございません。ですが、殿下が発した一言に、明確な矛盾がございます」 「矛盾?」 「殿下は、毒が置かれていた場所をご存知でした。ですが、その場所は事件発覚時に初めて確認されたはずのもの。まだ誰にも公表されていない情報です。……なぜ、殿下はそれをご存知だったのでしょうか」 沈黙が落ちた。 カイル様は、しばらく腕を組んだまま何かを考えていた。やがて、静かに口を開く。 「実を言うと、私も気になっていたことがあります」 「と、おっしゃいますと」 「あの夜、私は殿下の護衛として、王宮の廊下に立っていました。しかし、殿下の私室に人が近づいた形跡を、私は一切確認していません」 私は、思わず顔を上げた。 「では──」 「ええ。侍女の証言にある『貴女らしき人物が殿下の部屋へ向かった』という時間帯、少なくとも表の廊下からは、誰も通っていないはずなのです」 「では、どこから」 「わかりません。だからこそ、確かめる必要があると思っています」 カイル様の声には、確信めいた響きがあった。 「私は、貴女を信じているわけではありません」 「……存じております」 「ですが、証拠が、おかしい。それだけは事実です」 彼は、鉄格子越しに私をまっすぐ見据えた。 「もし貴女に、本当に無実を証明する意志があるのなら──手を貸します」 その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。 誰かに助けてもらうことを、私は望んでいたわけではない。ただ、自分の力だけで真実にたどり着くには、この牢の中では限界がある。 「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」 「何なりと」 「なぜ、私を助けてくださるのですか。今のあなたにとって、私と関わることは何の得にもならないはずです」 カイル様は、少し間を置いてから答えた。 「騎士として、見過ごせないことがあるからです。もし本当に、無実の人間が処刑されようとしているのなら──それを見過ごすことは、私の信念に反します」 損得ではない。ただ、正しさのためだけに動く。その言葉には、迷いがなかった。 「わかりました。……では、七日間で、真実を見つけ出します」 「七日、ですか」 「処刑までの猶予が、それだけしかございません」 カイル様は、小さく頷いた。 「まず、どこから調べますか」 その問いに、私は初めて、牢の中で微かな光を見た気がした。 「薬師の記録を調べたいと思います。あの毒が、どこで、誰の手によって購入されたのか──そこから、すべてが繋がっているはずです」 「わかりました。明日、詮議官の許可を取り付けます。短時間であれば、貴女を牢の外へ連れ出すことが可能なはずです」 「……ありがとうございます」 「礼はまだ早い。まだ何も、明らかになっていませんから」 彼はそう言うと、踵を返して歩き去っていった。 その背中を見送りながら、私は静かに拳を握りしめた。 一人ではない。 そのことが、これほどまでに心強く感じられるとは思っていなかった。 窓のない牢の中、私はもう一度、これから調べるべきことを頭の中で整理していく。 毒の購入経路。手紙の紙の出所。目撃証言の矛盾。そして──殿下が抱える、まだ明かされていない何か。 七日間。 その時間で、すべてを暴いてみせる。石の壁を伝う水滴の音だけが、時間の経過を教えてくれた。 窓のない牢の中で、私はどれくらいの時間が過ぎたのかもわからなくなっていた。ただ、頭の中だけは、驚くほど冷静に働き続けている。 毒。手紙。目撃証言。 どれも、私を犯人だと示している。けれど、どれも決定的に「おかしい」。 そのとき、鉄格子の向こうに足音が近づいてきた。規則正しい、迷いのない歩き方。騎士のものだ。「ヴィオラ嬢」 低い声に顔を上げると、そこに立っていたのは、王国騎士団副団長──カイル・ヴァレンだった。 殿下の護衛の任に就く彼とは、これまで儀礼的な挨拶を交わす程度の関係でしかなかった。婚約者だった私と、必要以上に距離を置いているようにも見えた。「……カイル様。このような場所まで、何用でしょうか」「見張りの交代で、たまたまここを通りかかっただけです」 彼はそう言いながらも、その場を立ち去る様子はなかった。鉄格子越しに、私をじっと観察するような目で見ている。「一つだけ、伺いたいことがあります」「何でしょう」「貴女は、本当に殿下を手にかけようとしたのですか」 まっすぐな問いだった。同情も、決めつけも感じられない、ただ事実を知りたいという響き。 私は、少し考えてから答えた。「いいえ。誓って、私はそのようなことをしておりません」「証拠は、貴女を示していますが」「証拠は、私にも不利に働いています。ですが──一つ一つを見ていくと、辻褄が合わない箇所がございます」 カイル様の眉が、わずかに動いた。「たとえば?」 私は、詮議の間で感じた違和感を、順に語った。「毒の瓶には見覚えがありますが、殿下に渡したことは一度もありません。手紙の文字は私に似ていますが、私はあのような文章の書き方をしません。目撃証言についても、その時間、私は自室におりました」「証明する手立ては?」「……ございません。ですが、殿下が発した一言に、明確な矛盾がございます」「矛盾?」「殿下は、毒が置かれていた場所をご存知でした。ですが、その場所は事件発覚時に初めて確認されたはずのもの。まだ誰にも公表されていない情報です。……なぜ、殿下はそれをご存知だったのでしょうか」 沈黙が落ちた。 カイル様は、しばらく腕を組んだまま何かを考えていた。やがて、静かに口を開く。「実を言うと、私も気になっていたことがあり
王宮の地下、詮議の間。 石造りの部屋には窓がなく、燭台の炎だけが揺れていた。私は椅子に座らされ、向かい側には、冷たい表情を貼り付けた文官たちが並んでいる。その最奥に、殿下──ルシアン様が立っていた。 「ヴィオラ・フォン・ローゼン。これより、王太子暗殺未遂の件について問う」 文官の一人が、書類を机に広げる。 「まず、これを」 差し出されたのは、小さな硝子瓶だった。中には見覚えのある、赤みがかった粉末が入っている。 「これは、貴女の私室の棚から発見されたものです。成分を調べたところ、殿下のワインから検出された毒と一致しました」 私は、それをじっと見つめた。 「……その瓶に、見覚えはございます。ですが、それを殿下に渡したことは一度もございません」 「では、なぜ貴女の部屋にあったのですか」 答えられなかった。正直に言えば、私自身にもわからない。 「次に、これを」 差し出されたのは一枚の便箋だった。目を通した瞬間、背筋が冷えた。 『今夜、あなたを殺します』 文字は、確かに私の筆跡によく似ていた。けれど── 「これは、私の書いた文章ではございません」 「筆跡鑑定の結果、貴女の字と酷似しているとの報告を受けています」 「似ているだけです。私はこのような文章を書きません」 文官は、私の言葉に耳を貸すつもりがないようだった。淡々と、次の証言を読み上げる。 「さらに、殿下付きの侍女より証言があります。事件当夜、殿下の私室へ向かうヴィオラ様の姿を見た、と」 「その時間、私は自室におりました。誰かと一緒だったわけではありませんが……」 「証明する術はございますか」 「……ございません」 沈黙が落ちる。私は膝の上で、拳を握りしめた。 一つ一つの証拠は、確かに私を指している。けれど、それぞれに小さな違和感がある。この毒を、私は渡していない。この文章を、私は書いていない。この時間、私は部屋にいた。 なぜ、こんなにも都合よく、私に不利な証拠ばかりが揃っているのだろう。 そのとき、それまで黙っていたルシアン様が、静かに口を開いた。 「ヴィオラ」 「……殿下」 「残念だ」 その一言に、これまで抑えてきた何かが、静かに崩れていくのを感じた。 「殿下」 私は顔を上げ、まっすぐに彼を見た。 「本当に、私が犯人だ
シャンデリアの光が、大理石の床に幾重にも反射していた。 王宮の大広間には、国中の貴族が集められている。今宵は、王太子ルシアン・アルヴェイン殿下の生誕を祝う舞踏会。私、ヴィオラ・フォン・ローゼンは、婚約者としてその隣に立っていた。 ──いつものように。「ヴィオラ様、今夜も凛としていらっしゃいますね」「相変わらず、殿下の隣がよくお似合いだこと」 すれ違う貴族たちの声には、賞賛の皮を被った棘がある。私はそれに気づかないふりをして、小さく会釈を返した。 冷たい令嬢。高慢な公爵家の娘。婚約者という立場を笠に着ている女。 そう噂されていることは知っている。けれど、いちいち弁明したところで、何が変わるわけでもない。私は昔からそうやって、感情を表に出さずにやり過ごすことを覚えてきた。「ヴィオラ」 低い声に呼ばれ、顔を上げる。ルシアン殿下が、こちらをまっすぐに見ていた。その瞳には、これまで見たことのない硬さがある。「殿下、いかがなさいましたか」「皆の前で、話しておきたいことがある」 その言葉に、周囲のざわめきがすっと静まった。楽団の演奏が止まる。何百という視線が、私たちに集まっていくのがわかった。 殿下は一歩前に出ると、広間全体に届くほどの声で告げた。「ヴィオラ・フォン・ローゼンとの婚約を、本日をもって解消する」 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。いや──理解したくなかったのかもしれない。「……理由をお伺いしても?」 私の声は、自分でも驚くほど平静だった。「君は、王妃にふさわしくない。感情を見せず、常に人を値踏みするような目で見る。そんな女性に、この国の未来を任せられない」 会場のあちこちから、小さなどよめきが上がる。同情の視線、好奇の視線、そして──嘲笑を隠しきれない視線。 殿下は続けて、扉のほうへと手を差し伸べた。「代わりに、私の婚約者として紹介したい女性がいる。セシリア・ベルナール男爵令嬢だ」 淡い水色のドレスを纏った女性が、しずしずと歩み出てくる。柔らかく微笑む顔。誰もが好感を抱くだろう、あたたかな空気を纏った人だった。「はじめまして、ヴィオラ様……その、このような形になってしまい、申し訳ございません」 セシリア嬢は、私に向かって深く頭を下げた。悪意は感じられない。むしろ戸惑っているようにさえ見える。 ああ、この人は